赤木リツコは、『新世紀エヴァンゲリオン』の中ではかなり整理された人間に見える。
感情に流される側ではない。
状況を読み、仕組みを理解し、技術を扱う。
NERVの中でも深いところまで構造を知っていて、混乱する人たちを一段引いて見ているようにも映る。
だから最初は、彼女は合理の側に立ち続けられる人物に見える。
何が起きているのかを理解し、何を切り分けるべきかも分かっていて、その知性で自分を保てる人間に見える。
けれど、この人物の終わり方は、その印象を静かに崩していく。
彼女は知っていた。
分かっていた。
それでも最後まで、自分の中の何かを整理しきれない。
合理の側に立っていたはずなのに、その合理だけでは支えきれない層が残り続ける。
だからこのページでは赤木リツコを、単なる技術者としてではなく、合理の側に立ちながら、役割・身体・継承・孤独を最後まで分けて扱えなかった人物として見ていく。
リツコはなぜNERVに残り続けたのか
リツコがNERVに残る理由を、仕事だからとだけ言ってしまうと少し足りない。
たしかに彼女は科学者であり、技術者として不可欠な人間だ。
エヴァを理解し、MAGIを扱い、組織の中枢に近い位置で機能している。
その意味では、彼女がそこにいるのは自然にも見える。
けれどNERVは、ただ能力があれば居続けられる場所ではない。
知れば知るほど、そこに流れているものの気味悪さも見えてくる。
個人の喪失や執着が、命令や計画の形へ変わっている。喪失の運用↗
合理の顔をしていながら、その内側にはかなり私的なものが沈んでいる。
そうした歪みを、リツコはかなり早い段階から理解している側だ。
それでも降りない。
ここが大きい。
彼女にとってNERVは、職場である以上に、自分を機能として保てる場所でもあったのだと思う。
役割がある。
知識がある。
扱える装置がある。
その位置に立っているあいだは、少なくとも自分を整理されたものとして置いていられる。
逆に言えば、その役割から降りたとき、彼女の中に残るものはもっと不安定だったのかもしれない。
だからリツコは、構造を知りながら残る。
見えていないからではなく、見えているからこそ、役割の中にいたほうがまだ自分を保ちやすい。
そこに、彼女の合理性と危うさが最初から重なっている。
MAGIは、何を保存した装置なのか
MAGIは作中では判断装置として機能する。
高性能なシステムであり、組織の意思決定を支える頭脳でもある。
ただ、その成り立ちを見ると、これは単なる便利なコンピュータでは終わらない。
MAGIに保存されているのは、ただの知性ではない。
一人の人間の判断を三つの層に分けたものとして置かれている。
科学者としての側面。
母としての側面。
女としての側面。
この分割自体が、すでにかなり不穏だ。
人間は本来、そう簡単に分けられない。
職業としての自分と、親としての自分と、一人の身体を持つ個人としての自分が、きれいに別々の箱へ入っているわけではない。
けれどMAGIは、それを分けて保存する。
分けて扱えるものとして置いてしまう。
ここで見えてくるのは、MAGIが正しい判断装置である前に、分割された人間の保存形式のように見えるということだ。
そしてリツコは、その装置を受け継いでいる。
ただ使用者としてではなく、かなり深い意味で継承している。
ナオコから受け継いだのは知識だけではない。
自分を分けて扱う形式そのものも、彼女の中へ流れ込んでいるように見える。
だからリツコは合理の側に立てる。
感情と役割を切り分けて処理する視点を持てる。
だが同時に、その分け方そのものが彼女を縛ってもいる。
分けて扱おうとするほど、分けきれない層が残るからだ。
母を理解しているようでいて、同じ形式の中に自分も入っていく。
MAGIを管理しているつもりで、MAGI的な分割の仕方に自分自身も従ってしまう。
そのことが、リツコの合理をただの強さにしない。
合理の側にいることは、なぜ彼女を守りきれなかったのか
リツコは感情を否定している人物ではない。
ただ、それを前に出さずに済む位置を選び続けている。
技術者であること。
科学者であること。
NERVの中で機能すること。
そうした役割に立っているあいだは、自分をかなり安定して見せられる。
だが、その安定は万能ではない。
合理は、切り分けられるものを扱うには強い。
手順に落とせること。
再現できること。
説明可能なこと。
そういう領域では、リツコはほとんど揺るがない。
問題は、それでも切り分けられないものが残ることだ。
母から受け継いだ形式。管理された器↗
必要とされたい気持ち。
身体を持つ個人としての自分。
役割の中では処理しきれない孤独。
こうしたものは、合理の外へきれいに追い出せない。
追い出したつもりでも残り続ける。
だからリツコの崩れは、合理が足りなかったからではない。
合理だけでは最初から扱いきれないものを、合理の側で持ちこたえようとしていたことのほうが近い。
彼女は、感情に飲まれているように見えるのではなく、むしろずっと整理しようとしている。
その姿勢自体が彼女の強さだ。
けれど、その強さは最後まで彼女を守りきらない。
なぜなら人間は、役割として機能していても、その外側に未処理の層を残すからだ。
「女として」の層は、なぜ最後まで未処理のまま残ったのか
リツコを語るとき、「女として」という層は扱いが難しい。
ここをそのまま性別論にしてしまうと薄くなるし、逆に無視してしまうと、彼女の崩れ方の一部が見えなくなる。
大事なのは、彼女の中にその層があること自体ではなく、それを役割化しきれないまま抱えていることだと思う。
彼女は科学者として立てる。
技術者として振る舞える。
だが、その位置に立つほど、一人の人間としての身体や承認欲求が消えるわけではない。
消えないのに、それを表に出さずに済むように整理し続ける。
その整理の仕方が、逆にその層を未処理のまま沈殿させていく。
ここで言いたいのは、彼女が「女であること」に苦しんだという単純な話ではない。
むしろ、役割の側に立ちながら、それでも役割化できない層を抱え続けたことのほうだ。
役割に立つほど、その層が消えるのではなく、未処理のまま沈んでいく。
科学者として機能することは、身体を持つ個人であることを無効にはしない。
必要とされる技術者であろうとするほど、必要とされたい個人としての自分は別の場所に押し込められる。
だが押し込められたものは、なくならない。
だから「女としてのリツコ」は、表に出てこないから存在しないのではない。
合理の側に立つほど、その層は抑え込まれたまま残る。
そして最後には、その押し込め方そのものが保てなくなる。
ここを弱さとだけ呼ぶのは違う。
彼女は合理の側に立つことで、自分を守ろうとしていた。
だがその守り方は、身体を持つ個人としての自分まで切り離せるわけではなかった。
そのことが、リツコという人物のかなり深い苦しさになっている。
綾波の予備体を壊した行動は、どこから出てきたのか
綾波の予備体を破壊する場面は、リツコを考えるうえでかなり重い。
ここを単純な嫉妬として読むと、少し浅くなる。
もちろん、感情の噴出はある。
だが、それだけではあの行動の重さを支えきれない。
あそこで噴き出しているのは、もっと長く押し込められてきたものだと思う。
自分は合理の側にいる。
技術者として機能している。
構造を理解している。
それなのに、代替可能なものが目の前に並ぶ。
役割の中で成立しているものが、自分よりも静かに置かれている。役割の中のレイ↗
しかもその配置の中心には、自分が切り分けたつもりでいた感情の層が触れてくる。
ここで壊れているのは理性ではなく、理性の外へ押し込めていたものとの境界なのだと思う。
綾波の予備体を壊す行為は、技術判断ではない。
合理的な処理でもない。
ずっと未処理のまま残っていたものが、ようやく外へ出てしまった形に近い。
つまりあれは、突然おかしくなったのではなく、ずっと分けて保っていたものが保てなくなった瞬間だと見たほうが自然だ。
ここでリツコは、役割の側からはみ出す。
そしてそのはみ出し方が、どれだけ無理をして切り分けてきたかを逆に示してしまう。
猫の話は、何を示していたのか
猫の話は小さく見える。
けれど、あれを完全に脇へ置くのももったいない。
猫は、人間ではない。
複雑な関係を要求しない。
言葉で傷つけてこない。
役割を返してもこない。
そばに置ける。
だが、人間の代わりにはならない。
ここにあるのは、リツコの孤独の質だと思う。
誰かと深く関わることは、彼女にとって楽ではない。
合理の側に立っているあいだはなおさら、自分の未処理な層を見せることになるからだ。
だから、少しずれた距離で置けるものが必要になる。
猫はその一つの形に見える。
ただし、それで孤独が解決するわけではない。
むしろ、埋まらなさの輪郭が静かに残る。
この話が効いているのはそこだ。
何かを置いておける。
でもそれで人間の問題は処理されない。
NERVが彼女を必要としたように、猫もまた彼女の空白を完全には受け止めない。
だからこの話は補足ではなく、役割で機能できても、人間として受け止められる場所がないというリツコの孤独を静かに示しているのだと思う。
赤木リツコはなぜ合理の側にいながら、自分を切り分けきれなかったのか
赤木リツコは、感情に流される人間としてより、感情を整理し、切り分け、管理する側に見える。
実際、彼女はその位置に立ち続けていた。
NERVの構造を理解し、MAGIを扱い、役割の中でかなり高い機能を果たしている。
けれど、その整理は最後まで持たなかった。
なぜなら彼女が扱っていたのは、そもそも合理だけでは切り分けられないものだったからだ。
ナオコから受け継いだのは知性だけではなく、自分を分けて扱う形式そのものだったのかもしれない。
だが人間は、その形式だけでは生ききれない。
役割に立つほど、その外側の層は消えるのではなく、未処理のまま沈んでいく。
身体を持つ個人としての自分。
必要とされたい気持ち。
役割化しきれない孤独。
そうしたものは、合理の側に立ってもなくならない。
だから最後の崩れは、突然ではなく蓄積の臨界として現れる。
彼女は弱かったのではない。
むしろ長く持ちこたえていた。
合理の側に立つことで、自分を保とうとしていた。
だがその合理は、未処理のものを消す力ではなかった。
切り分けられるものを扱う力ではあっても、切り分けられないものまでなくすことはできない。
赤木リツコとは、そのことを最も深く知っていた側の人間だったのかもしれない。
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