『逆襲のシャア』を見終えたとき、誰が正しかったのかを決めても、あまり答えに近づいた感じがしない。むしろこの映画では、正しさを語るだけで人が動く場面の方が少ない。
クェスは自分を認めてくれる場所を求め、ハサウェイは彼女を失いたくない気持ちから戦場へ入っていく。連邦政府は目の前の和平と取引を成立させ、シャアも人類の未来だけを考えてアクシズ落としを進めたわけではない。
愛されたい。認められたい。失いたくない。自分の立場を守りたい。そうした個人的な欲望や自己防衛が、人間関係を壊し、戦争を広げ、取り返しのつかないところまで人を動かしていく。
それでも最後には、同じような切実さが敵味方の境界を越え、人々をアクシズへ集めた。『逆襲のシャア』は人間の欲望を肯定する映画ではないと思う。ただ、正しい言葉よりも強く人を動かすものがあり、その力が破滅にも救いにもつながるところまでを描いている。
正しさより、欲望の方が強く人を動かす
戦争という大きな話を見ていると、登場人物の行動を所属や理念から理解したくなる。地球連邦にいるから地球を守り、ネオ・ジオンにいるからシャアの理想へ従う。けれど『逆襲のシャア』で起きていることは、それだけでは説明しきれない。
クェスは自分を理解してくれる人を探し、ハサウェイはクェスを救おうとする。ギュネイにはシャアから認められたい気持ちがあり、ナナイもシャアとの関係を守ろうとしている。大きな戦争が動いているように見えて、その内側にあるのはかなり個人的な欲望だ。
その動きが分かりやすく表れるのが、クェスがシャアへ引かれていく場面だと思う。彼女はネオ・ジオンの理念を十分に理解し、その思想を選んでシャアの側へ移ったわけではない。
自分の感覚を否定せず、特別な存在として扱ってくれそうな人物が目の前に現れた。クェスにとっては、その感覚の方が正しさや所属よりも強かったのではないか。
シャアが差し出した手は、ネオ・ジオンへの誘いであると同時に、クェスが探していた居場所のようにも見える。「ここなら自分を受け入れてもらえる」という感覚が、正しいかどうかを考えるより先に彼女を動かしていく。
その選択は、クェス一人の問題では終わらない。彼女がシャアの側へ移ることでハサウェイはあとを追い、ギュネイやナナイとの関係にも揺れが生まれる。自分の居場所がほしいという願いが、周囲の人間を巻き込み、戦場の流れまで変えてしまう。
欲望は、進むべき方向を教えてくれるものではない。けれど、人がどこに立ち、誰を選び、何を捨てるのかを決める力としては、理念や正論よりもずっと強く働く。
守りたい気持ちも、相手を見失えば暴力になる
誰かを守りたいという気持ちは、身勝手な欲望とは違うものに見える。ただ、その人を失いたくないという感情も、自分の内側から生まれる切実さには変わりない。
ハサウェイがクェスを救いたいと思う気持ちは、本物だったと思う。けれど、その思いが強くなるほど、クェス自身が何を選んでいるのか、戦場で何が起きているのかは見えにくくなっていく。
彼は正式な任務として出撃するのではなく、クェスを連れ戻したいという私的な思いに押されて戦場へ向かう。自分が動かなければ彼女を失うという恐怖が、立ち止まって考える余地を奪っていく。
戦場では、自分の思いだけで状況を動かすことはできない。クェスにはクェスの感情があり、周囲では別の人間もそれぞれの判断で動いている。それでもハサウェイには、全体を見るだけの余裕が残っていない。
クェスもまた、自分が安心できる場所を探すことに精一杯で、ハサウェイやギュネイ、ナナイが何を感じているのかまで受け止めきれないように見える。二人とも誰かを傷つけるために動いたわけではないのに、自分の求めるものを優先した結果、周囲を巻き込み、取り返しのつかないところまで進んでしまう。
人を思っていることと、その人を守れることは同じではない。むしろ思いが強いほど、自分の中で作り上げた相手しか見えなくなることもある。
組織の保身がアクシズ落としを可能にした
欲望や自己防衛で動くのは、クェスやハサウェイのような若い人物だけではない。連邦政府の人間たちも、自分たちの立場や目の前の決着を優先し、その判断がシャアの計画を成立させる土台になる。
アクシズは、ネオ・ジオンが武力だけで奪ったものではない。連邦政府との交渉によって譲渡され、その場では金塊を含む取引が淡々と進められていく。
その場にいる人々が、地球へアクシズを落としたいと考えていたわけではない。むしろ争いを終わらせ、問題を処理したつもりだったのかもしれない。
けれど、目の前の和平や取引を成立させることが優先され、アクシズを渡した先で何が起こるのかを見抜けなかった。あるいは、そこまで考えることを避けた。その積み重ねによって、シャアの計画は現実に動き始める。
シャアが人間へ失望した理由を、連邦政府自身が裏づけてしまっているようにも見える。地球を守る立場にいる人間でさえ、地球全体の未来より、自分たちの立場や目の前の利益を選んでしまう。
ただし、だからシャアが正しいという話にはならない。人間が保身や欲望で動くことを見抜きながら、シャアはその弱さを利用し、人類全体へ取り返しのつかない変化を押しつけようとした。
シャアの理想には、個人的な欲望が混ざっていた
シャアは、地球を休ませ、人類を宇宙へ上げようとする。人間が自分から地球を離れないのなら、住み続けることのできない場所にしてしまえばいい。その考え方は乱暴だけれど、一つの理屈としては通っている。
地球に残る特権を守ろうとする人々を見てきたシャアにとって、人間が自分から変わるのを待つことには意味がなかったのかもしれない。
でも、彼を動かしているのは人類への絶望だけではない。アムロへの執着があり、ララァを失った痛みも消えていない。自分が受け取るはずだったものをアムロに奪われたという感覚が、ずっと残っているように見える。
最後にシャアの口から出てくるのも、人類の未来や地球の行く末ではない。ララァが自分を無条件に受け入れる存在になってくれたかもしれない、という極めて個人的な願いだった。
人類全体の未来を変えようとした人物の奥に、誰かから愛されたかったという欲求が残っている。ここが、シャアという人物の苦しさだと思う。
自分も誰かに受け入れてほしいと願っているのに、同じように居場所を求めてきたクェスを一人の人間として受け止めることはできない。彼女の能力を計画に組み込み、戦場へ送り出してしまう。
シャアは人間の弱さを見抜いている。それでも、自分自身の欲望から自由になれたわけではない。人類を宇宙へ上げるという大きな理想の中へ、自分の傷やアムロとの決着まで混ぜ込んでいる。
だからアクシズ落としを、純粋な理想の実行としてだけは読めない。世界を変える計画であると同時に、シャア個人の苦しみを世界全体へ広げたものにも見えてくる。
「失いたくない」が敵味方を同じ方向へ動かす
アクシズが地球へ落ちていく中、アムロはνガンダムでその一部を押し返そうとする。一機のモビルスーツで巨大な小惑星を止められるとは思えない。それでも、成功する保証を求めるより先に機体をアクシズへ押し当てる。
アムロも、連邦政府の腐敗や人間の身勝手さを知らないわけではない。それでもシャアのように、人類はこう変わるべきだと他人の未来を決める方へは進まなかった。
地球を失わせてはいけない。そこに生きる人々の未来を、ここで終わらせてはいけない。アムロが動いた理由は、そのくらい切実で単純なものだったのかもしれない。
その姿を見て、周囲の機体もアクシズへ集まり始める。連邦側だけではなく、ネオ・ジオン側のモビルスーツまで同じ場所へ向かっていく。
彼らが同じ思想へたどり着いたわけではない。戦争が終わったわけでも、互いを理解できたわけでもない。それでも、地球を失いたくないという一点では同じ方向へ動けた。
自分たちが生きる場所を守りたい。目の前で起きようとしている破滅を止めたい。このまま何もしないではいられない。それも広い意味では、自分を守ろうとする感情だと思う。
自己防衛は、自分だけを守るために他人を切り捨てる力にもなる。一方で、自分の生きる場所にはほかの人間もいると気づいたとき、その範囲は個人や組織の外へ広がっていく。
シャアが人間にはできないと諦めたことを、人々は正しい思想を与えられたからではなく、失いたくないという感情によって選んだ。
サイコフレームの光が見せたもの
人々がアクシズへ集まったあと、νガンダムを中心に緑色の光が広がっていく。その光は周囲へ伝わり、最後にはアクシズの軌道にまで影響を与えたように描かれる。
この場面を、人の思いが起こした希望の奇跡と呼ぶことはできる。ただ、それだけで終わらせると、映画の途中で起きたことが抜け落ちてしまう。
クェスやハサウェイを戦場へ向かわせたのも人の思いだ。シャアをアクシズ落としへ進ませたものにも、ララァへの執着や人類への絶望が混ざっている。
思いは、それだけで正しいものにはならない。サイコフレームも、人間の善悪を選び、正しい方向へ導く装置として描かれているわけではないと思う。
画面で起きているのは、人の内側にあった感情や意思が伝わり合い、目に見える光となって、現実へ作用していく現象だ。そのとき集まっていたのが、地球を失いたくないという方向へ向かう思いだった。
だから最後にアクシズを押し返したのは、誰か一人の正しさではない。人から人へ広がった切実さを、サイコフレームが世界の形を変えるほど大きな力として見せたように思える。
人は正しくなくても、動くことで未来を変える
『逆襲のシャア』に出てくる人間は、最後まで不完全なままだ。愛されたいと思い、認められたいと願い、自分の居場所や立場を守ろうとする。そのために他人を利用し、感情に流され、取り返しのつかない判断までしてしまう。
正しいことを説明すれば、みんなが納得して同じ方向へ進める。そんな世界ではない。
シャアはそこに絶望し、人間に選ばせることを諦めた。地球を住めない場所にすることで、外側から人類を変えようとする。
アムロも、人間がいつか必ず正しくなると信じていたわけではないと思う。それでも、間違える人間から未来を選び直す時間まで奪うことはしなかった。
二人の違いは、人間が善いか悪いかという評価だけではない。これから先の未来を、誰が決めるのかという違いにある。
最後にアクシズへ集まった人々も、正しい人間へ生まれ変わったわけではない。ただ、失いたくないものを前にして、昨日までの所属や命令を越えて動いた。
欲望や自己防衛は、争いを生む。自分以外のものが見えなくなり、誰かを傷つける力にもなる。けれど、その力が自分の生きる場所や、そこにいる誰かへ向いたとき、人は今までの立場を越えることもできる。
『逆襲のシャア』が最後に残したのは、人間は正しいという答えではない。正しさが機能しない世界でも、人は何かを失いたくないと願い、動くことで未来を変えることがある。
それは人間を信じられる根拠というより、完全には諦めきれない理由に近いのかもしれない。
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